受験の定石 - 東大生が教えるやさしい勉強法 -
- 第10回 現代文は「理」 2 -
一般的な話として、一つ言えるのは、その問題とそれに対する解答が大部分の人にとってコンセンサスがとれる、つまり、客観的にみて同意ができるものであるということです。
もっと具体的な話をしましょう。
たとえば、数学の問題。1+1=■であるとき、■にはいるのは、2であるわけですが、これは同意ができるものです。
その理由は、いろいろな説明の仕方はありますが、
例えば、目盛りが右方向に1ずつ増加していく数直線を用いると、この式が表すのは、数直線上の1のところにとった点があり、 その点が1のところから右方向に1分移動することを表します。
つまり、その時点で点は2の位置にあることになります。
明らかに回りくどい話をしてしまいました。
しかし、「なんで回りくどい話になってしまうか」ということに立ち返って考えてみると、それは、
回りくどい話をしなくてもいいだけの前提が多くの人に共有されているから
だということがわかります。
もっとわかりやすく言うと、みんな1+1が2になるのであり、それ以外の3とか4とかにはならないという数式の因果関係、論理を無意識のうちに理解しているのです。
つまり、多くの人にとって、上記の様な論理(ロジック)が成立することが共有されている。
話が分かりにくくなったかもしれません。
この「多くの人が共有できること=コンセンサス」と「論理」の関係をもう少し普段の生活のレベルに落とし込んでみましょう。
例えば、他の人に何か感動した映画の説明をするとします。
「最初のシーンから途中まではハラハラドキドキさせたれたけど最後のシーンですごく感動した」
それを聞いた人は感動を共有できるでしょうか?
「君がうれしいから私もうれしい。君が泣くなら私も泣ける。」
そういった、言ってしまえば湿っぽい人間関係は存在するかもしれませんが、実際考えてみれば分かるとおり現実はもっとドライなものです。
他人同士の感情を分かり合えるような「電波」を飛ばす機能は人間の心には付いていません。
上記の言葉では「あなたが感動した」と言う事実は伝わっても、相手を感動させる、または、少なくとも相手に感動したワケを共有してもらうことはできません。
もちろん、あなた自身が泣きながらそれを話したりしたら相手も一緒に感動してくれるかもしれませんがそれはただ「その場の空気の共有」をしただけでしょう。
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